好き!→LINEブログの残骸(2021.12~2023.3)

僕の好きなもの、好きなこと。好きってなんだ?

原点に戻り、茶道の稽古

 茶道を習っている石州流大口派に限らず、茶道の基本は口伝。その場でお点前の所作、お茶をいただくときの作法、茶室のしつらい、茶事の手順などを覚える。メモを取ったり、写真を撮ったりするのは原則禁止。許されても、「稽古の後」だ。
 ところが先生がとても寛容な方であることに甘え過ぎ、スマホを持ち込んで、稽古の最中に写真を撮ったり、調べ物をしたりしていた。
 これをみて、茶道の稽古に誘ってくれた高校の同級生Eさんが苦言を呈した。
 「お茶室での調和や融合を考える時、動画や写真はできる限り控えるべきだと考えます。お茶室は取材の場ではありません。お点前、道具組みに感じ入ること、亭主との対話、まわりの人への気遣いなどなど、カメラに集中していてはその瞬間瞬間を逃すことばかりだと思います。ブログ作成のことに一生懸命になるあまり、リアルな茶室空間のあるべき姿への参加貢献の姿勢が失われていませんか?」
 その通りだ。
 私はメディアの世界、言論空間を自由で気持ちの良い場にしたいと日々、思っている。ところが情報の世界は「情報パンデミック」とも呼べる状態にある。偽情報、誹謗中傷、正しく見えても、実は歪んだステルスマーケティング、普通の人の話も、誇張され、面白おかしく流される。
 油断をすると情報汚染に感染し、冷静な判断ができなくなる。防御手段を講じておないと、騙されたり、攻撃されたりする。
 その原因の一つが冷静にしっかり、深く物を考えない風潮。スマホ頼み、AI頼み、検索頼み、他人の話頼みという浅い情報収集だったりする。それを嘆いていた自分が、スマホの罠にハマってしまった。
 Eさんは続けて言う。「先生の言葉を聞き漏らさない、同席者の姿から良きものは盗む、など謙虚に学ぶ姿勢というものが大事で、われわれ年長者はそれを若い人に示せるようにしたいものです」。
 撮影をしていると、見ているようで動きを見ていない。聞いているようで話を聞いていない。五感で得たものも、美しさに対する感動も、ためになるお話も、脳には入らず、全てスマホが記憶する。せっかくその場にいるのに、後で映像を見る人と同程度の情報しか得られない。もったいない。
 今日は、全て頭に入れようと、目の前で起きていること、先生の解説を細大漏らさず聞こうとした。
 やはり違う。心地よい緊張感。お点前をする人の気持ち、意気込み、場の雰囲気、全て伝わってきた。
 人生残り後わずか。起きたことは「復習」ではなく、その場で吸収したい。目の前の体験と共に知識が刷り込まれる。
 昔からの稽古の学びの手法は素晴らしい。
 先生には原点に返って茶道を学びたいと話していた。先生は少しも嫌がらず、基本中の基本から教えてくれた、なぜ、草履を履いて、庭から茶室に入るのか。そこから、身も心も清め、真理に近づく茶の道に入るのだ。
 所作一つひとつの意味を改めて、丁寧に教えてくれた。
 もうメモ代わりなどと言ってここに書かなくても、覚えなければならないことは身に刻まれた。
 皆様もブログの記事ではなく実際の茶道を通じて、この身震いするような心地よい体験を、ぜひ味わってほしい。






 べき姿への参加貢献の姿勢が失われていませんか?と先日の席で感じていました。
これは、私のお茶というものに関する考え方なので、相川さんには相川さんのお茶があるので、押し付けたいとは思いませんが、先日は奥のお点前の動画を撮り続けていらっしゃる隣りにいて、そこにはバリアを感じ、ずっと不快な思いを抱き続けていたことは確かです。
先生の言葉を聞き漏らさない、同席者の姿から良きものは盗む、など謙虚に学ぶ姿勢というものが大事で、われわれ年長者はそれを若い人に示せるようにしたいものです。
あと、習ったことを忘れてしまうのは誰でもあります。私もそうです。「忘れましたので、もう一度教えてください」でよいと思います。
「教えてもらっていない」と言い切っておられましたが、これまでお伝えしたことをまるで全てなかったことに言われてしまわれたようで、「悲しい」とは申し上げました。「覚えていなくて情けない」とは言っておりませんし、思ってもいません。