久しぶりのデスカフェ
日本経済新聞夕刊2016年10月18日付の記事でデスカフェを取り上げた。「少人数の和やかな雰囲気のなかで、「死」にまつわる話を身近に語り合う「デスカフェ」に関心が高まっている。遺言や葬儀など終末期の準備をする「終活」がブームになっているが、家族や自分の死については心の準備ができていない例も少なくない。デスカフェは肩の凝らない「死の準備教育」の場として広がっていきそうだ」。
それから6年3ヵ月、久しぶりにこの記事で取り上げた葬儀社、ライフネット東京(東京・品川)代表の小平知賀子さんが主宰するデスカフェに参加した。
勉強になったのは「グリーフ」の定義だ。「グリーフとは、死別によって引き起こされる、様々な思い・感情・思考が『閉じ込められた状態』」。これに対し、モーニング(mourning)という言葉がある。「ありのままの自分のこと感情や思い・考えを、押さえ込まずに『自分らしく』表現できて、受け止めてもらえた状態」を指す。
感情を表に出す。それは「自分らしい表現」をするということだったり、「泣きたいだけ泣く」ことだったりする。
グリーフはさまざまな感情・思い・考えを溜め込んでいる状態だけに、身体、認知、感情、精神、社会的関係に大きな負の影響をもたらす。それを防ぐために、「悲しみと折り合いをつけ」たい。そして、 「最後まで話を聴いてくれる人や場所を見つける」ことが必要だという。
私は親族の死に直面した時に、ショックは受けたが、悲嘆に暮れたりはしなかった。普通に生活をして仕事をした。けれど、それも「グリーフ」の状態だったのだ。一本取られた感じがした。
神藤さんのお話の後、デスカフェが始まり、それぞれがグリーフ体験を話した。
デスカフェはプライバシーを重視することが必要なので詳細に議論の内容書くのは控えるが、一つだけ目からウロコの話があった。
70代の女性。夫が亡くなって2年8ヵ月経つが、未だに夫を思うと、泣いてしまうという。時間は何も解決してくれない。彼女にどう寄り添えばいいのだろうか。「もういつまでもくよくよせず、元気を出して」と言うのだろうか。
違う。深いグリーフ状態にある人はその裏返しで深い愛情や幸福な時間があったのだ。だとすれば、例えば、「その幸福なころ」の話を聞いてあげる(ご本人が望めば)のが正しいのではないか。
グリーフケアは、その人の人生そのものを理解することが必要。簡単なことではないと感じた。