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二兎社「歌わせたい男たち」(永井愛作・演出、東京芸術劇場シアターイースト)(ココログ2022.12.10)



 

二兎社の「歌わせたい男たち」を東京芸術劇場シアターイーストで観た。もともとは12月3日に観る予定だったが、関係者に新型コロナ感染者が出たと言うことで公演は中止になり、今日に振り替えて観た。

 2005年の初演。2008年に再演された。高校の卒業式での君が代斉唱をめぐる教育現場のドタバタ劇だ。

 教育委員会の指導通り生徒を起立させて君が代を歌わせたい校長(相島一之)と、校長が説得しても「君が代斉唱では起立しない」と言い張る社会科の教師(山中崇)。その間に挟まれて右往左往する元シャンソン歌手の音楽講師(キムラ緑子)。話題作の14年ぶりの再演ということで東京芸術劇場のシアターイーストは満席だった。

 しかし、「なぜ今、この作品を上演するのだろうか」と正直思った。

 かつては起立して君が代を斉唱することは憲法の思想・良心の自由に反すると校長の命令を聞かない教師も多く、この問題はマスメディアでも再三取り上げられた。しかし、校長が君が代を斉唱するように命令することは憲法19条に違反しないといった最高裁判決なども出て、最近は君が代斉唱に反対する教育現場のニュースはあまり聞かない。

 作・演出の永井愛さんはタイムリーなテーマを演劇にする達人だが、なぜ今?

 この疑問は、芝居を見ていくにつれ、だんだんとけてきた。

 「いやだと思って歌っても内心の自由は侵されない」。もっともらしい校長の演説が決め手だった。そんなわけないじゃないかと思ったが、「空気を読む」ことが得意になった現代人は、思っていることは内に秘め、軋轢は避けて、表向きは従う、という行動パターンをとることが当たり前になってしまったのではないか。

 意見の対立があって、教育現場が騒然となっていたころのほうが、むしろ健全だったのではないか。「君が代斉唱の強制は問題がある」と思ってもことを荒立てない。処分されてはたまらないと、反対論や許せないと言う気持ちを内に秘め、何事もないように振る舞っているだけではないか。

 そう考えるととても怖くなった。

 新聞社では社会部にいたこともあったが、人が死ぬとが、対立が起こるとか、「事件」が起こらないとなかなかニュースにはしづらい面がある。だから、関係者がだまってしまったら、社会問題は見えなくなってしまう。被害者やおかしいと思う人が声をあげてくれないと、問題が存在しないことと同じになってしまうのだ。

 内心おかしいと思いながら仕事をしたり暮らしていれば精神が病んでくる。「内心の自由」とは、思っていることを誰かに話したり、なんらかの方法で公にする「表現の自由」を伴ってこそ、成り立つ。

 ウクライナ侵攻について、憂いているソ連の国民は多いのかもしれないが、迫害を恐れて、大多数の国民は何も言えない。何も言えないというのは内心の自由があるとは言えない。

 SNSが発達し、だれもが意見を発信できるようになったと言われるが、実態は反対意見があるような問題については積極的に発信する人は少ない。反対の意見を持つ人たちの攻撃にされされ、炎上するリスクも大きいからだ。

 物が言えない時代。何も問題がないように表面的には見える時代。

 永井愛さんはそんな時代を憂いて、「歌わせたい男たち」を再演したのだと思う。

 とてもタイムリーな芝居だった。


 永井愛さん、面白かったです。

 劇の最後。「聞かせてよ、愛の言葉を」という歌が流れた。

 勇気を盛って、心の言葉を聞かせたいし、努力して声なき声を拾いたい。